2015/01/12

ニッカウィスキー「カフェモルト」「カフェグレーン」

昨年末の事、ニッカウヰスキーの「カフェモルト」と「カフェグレーン」のセットをいただいた。どうもありがとう。

届いた包みを開けると「お歳暮」と書かれていて、実を言えば人生初のお歳暮ではないかと思う。自分がそれに値するような大人なのかと振り返ってみると、思わず身震いがする。もっと精進しよう。

Coffey Still

さて、カフェである。この名前はCoffey Stillという連式蒸留器で作った蒸留酒(麦から作ったMaltとそれ以外の穀物から作ったGrain)であることを示している。Coffeyというのは人の名前で、連式蒸留器の開発者。Coffeyさんはこの蒸留器の特許を取得したため、別名Patent Stillとも言われているそうな。

このCoffey Still、今となってはかなり旧式に属する蒸留器で、日本国内にはおそらくこれ1台。世界的に見ても数台しかないのだそう。最近、その名が改めて脚光を浴びている竹鶴さんご自慢の蒸留器なのだそう。

数年前、ニッカウヰスキーの宮城峡蒸留所を見物(見学ではない)しに行った際、一番楽しみにしていたのはこのCoffey Stillだった。が、蒸留所の方に見学コースを案内していただいてピートのカタマリを持って写真を撮ったり、余市蒸留所と同じく注連縄の貼られたPot Still(単式蒸留器。銅でできた大きなフラスコだと思えばいい。一般的なモルトはこれで2回蒸留されて作られる)を見たりしたけど、結局最後までCoffey Stillがコースに登場することはなかった。

少し躊躇しつつ、案内員の方に「Coffey Stillは見られないのですか?」と聞いてみたところ、少し申し訳なさそうなご様子で「今は操業中なので」という答えが返ってきた所で気が付いた。

連式蒸留器で生成されるアルコールの度数は70%を超える。そのくらいの度数のラムやウォッカのラベルには「火気厳禁」の注意書きがされている。蒸留器の周辺には気化したアルコールが充満している可能性があるし、もしそんな状態で静電気の放電でも起きれば大惨事になるだろう。

ということで、その時はCoffey Stillの置いてある建物の写真を撮って満足して帰ってきた。後からバーで聞いた話では、バーテンダーさんが見学に行く際は、あらかじめCoffey Stillが操業していないタイミングを見計らって行くことが多いのだそうだ。何事にも先達あらまほしきや。

Coffey Stillの味

実はこんなことをクドクド書いているにもかかわわらず、今までCoffey Maltを飲んだ事が無かった。典型的な耳学問の未熟者である。とはいえ、ニッカのウィスキーが普及帯のものまで美味しいのには、このグレーンの存在が大きいと思っていたので、今回飲む機会をいただけとても嬉しい。

年末に口を開けて、何度か飲ませて貰った。美味しい。カフェモルトの方は最初オレンジのような香りで、後から麦の甘味と香り、それからカラメルとスパイスのような残り香がある。ブルーチーズにハチミツを垂らしたものとか、あと実家で貰ってきた黒豆なんかがよく合う。少し甘さのあるものが合うみたい。

カフェグレーンの方は、やはりオレンジのような香りは共通しているけれど、後からバーボンと似た花のような香りを感じる。こちらも甘味を感じるけど、おそらくアルコールに由来するもので、後味はモルトに比べるとややスッキリしている。こっちはゴーダチーズやナッツ類なんかと一緒に飲むのが美味しかった。少し脂っ気があるものが良いんじゃないかと思ったので、次はベーコンを切る。

どちらも他のウィスキーにはない個性があって、どんな食べ物と合わせるとイイかなと夢想したり、加水の量を変えてみたりと試行錯誤をするのが楽しい。

2014/12/18

Ingressエージェントに贈る『孫子』のすすめ

このエントリはIngress Advent Calendar 18日目の記事です。

はじめに

皆さんこんばんは。ingress楽しんでますか?もともと、友人がプレイしているという話を聞いていて「へー、ARのゲームなんだ」くらいに思っていたのですが、今年の初めに試しにインストールしてみてビックリしました。この年まであまりゲームにはハマらず生きてきたのですが、リアルな世界の歴史、地形と濃密に絡んだ戦い。思わずのめり込んで間もなく1年が経とうとしています。

さて、実はingressをはじめてから、本棚の『孫子』を改めてひっぱり出してきて3回読み返しました。それまでとは違って、エージェントとしての目で『孫子』を読むと、その文章は全く異なる姿で僕の目に映るようになりました。

『孫子』

ご存知の通り、中国古典である兵法(戦争を中心とした治世)のもっとも基本的な書物です。現在では「当たり前の事が書かれていて、いまやそれほどの価値は無い」と言われる事もあります。でも、この時代の古典というのは特殊な書物で、知識のエッセンスがこれ以上ないくらいに凝縮されています。凝縮されているがゆえに、読み手の解釈の幅が生まれてくる。ここがおもしろい。

昔から、多くの解釈や読み解き方があって、僕も岩波文庫版、中公文庫版など何冊か持っています。Webでは、以下のリンク先に原文と書き下し文が詳解されているので、一度ご覧になると楽しいと思います。本文中の引用は、このサイトからのものです。

http://kanbun.info/shibu02/sonshi00.html

ingressエージェントのための始計篇

ここでは『孫子』の冒頭、「始計篇」から幾つかご紹介したいと思います。まずは最初のこの一節。

孫子曰く、兵とは国の大事なり、死生の地、存亡の道、察せざるべからざるなり。ゆえにこれを経るに五事をもってし、これをくらぶるに計をもってして、その情をもとむ。一に曰く道、二に曰く天、三に曰く地、四に曰く将、五に曰く法なり。

「兵とは国の大事なり」重い言葉ですね。ingress的に読み換えてみると「ingressとはエージェントの大事なり」とでもなるでしょうか。すごくザックリいえば「リアル大事」って事です。家族に隠れてリアル課金とかするのはマズいです。ええ。

くらぶる」という言い回しはあまりピンとこないかもしれませんが、今でも「校正」という単語にその名残が残っています。「正しさを計るには、きちんと数値化して実態を把握しなさい」という話です。

「五事」というのは、こういう事。

  • 道:国の治世(君臣の心が一致していること)
  • 天:気候や天候、時機など
  • 地:地勢や地形
  • 将:指揮官の力量
  • 法:軍隊をまとめる規則や規律

これもingress的に読み替えてみるとこうなる。

  • 道:エージェントのプライベートの充実
  • 天:気候や天候、時機など
  • 地:地勢や地形
  • 将:エージェントの力量
  • 法:エージェントプロトコルや倫理観

そのままですね。読み進んで行くと、必ずしも当てはまらないような箇所もあるのですが、そういうのは気にしない事にします。そもそも千年以上前の戦争の話と、ingressでは環境が異なるので、100%同じ読み解き方をしても仕方がありません。

続いては、これも凄く有名な一説ですが、「兵」を「ingress」に置き換えて読み返してみると含蓄がありますね。

兵とは詭道きどうなり。ゆえに能なるもこれに不能を示し、用なるもこれに不用を示し、近くともこれに遠きを示し、遠くともこれに近きを示し、利にしてこれを誘い、乱にしてこれを取り、実にしてこれに備え、強にしてこれを避け、怒にしてこれをみだし、卑にしてこれをおごらせ、いつにしてこれを労し、親にしてこれを離す。その無備を攻め、その不意に出ず。これ兵家の勢、先には伝うべからざるなり。

「正面から挑んでも勝てそうにない相手にどうやって挑むか?」「エージェントに取って用/不用とは何か?」なんて事を考えながら読むと想像力を刺激されて仕方ありません。

まとめ

ということで、ingressをプレイする際に『孫子』を読んでおくと、色々面白いのでお勧めです。普通、軍人さんでなければ戦術論を実際に試してみる機会なんてありませんが、ingressでなら実際の地形や人を相手に試してみる事ができます。ピタリとはまった瞬間はとても楽しい。

ここで紹介したのは全部で十三篇ある『孫子』の最初の一篇、さらにほんのニ句だけ。もちろん全てが役立つ訳ではないので、そこはご注意ください。この時代の中国では良くある話ですが、例えばここで紹介した始計篇でも、「私の言う事を聞けば勝利間違いなし」と自分を売り込むような内容の句があったりします。その一方で、第六の『虚実篇』なんかは実際的な意味でとても勉強になると思います。

Ingress Advent Calendar 2014、明日はpekoyaさんです。

2014/11/03

『理不尽な進化』読書メモ

国書刊行会の同期で、友人の吉川浩満君が執筆した書籍『理不尽な進化』が刊行された。めでたい。

本書の執筆中に開催された合評会に呼んで貰った縁で、一部献本していただいた。有り難いことであり、またたいへん恐縮している。というのも(僕の記憶によると)合評会で僕がしていたのは、本番後の居酒屋における吉川君とのたわいもない馬鹿話だけで、本書の成立にまともな寄与をしたとは思えないからだ。

自分なりの感想をまとめることで、多少なりとも友人の書籍(の売上)に貢献できればと思っているのだけれど、より良質な解説は山本さんによって既に行われている(はず。何も書けなくなる不安から、まだ拝見していない)。ぜひこちらを先にご参照いただけたらと思う(下記リンク先)。

http://d.hatena.ne.jp/yakumoizuru/20141031

本書は「進化論」に関する書籍であり、また僕を含めた世間の人間が「進化論」という科学理論をどのようなものとして受け止めているのかについて考える書籍でもある。正直に申し上げて、本書で取り上げられているような事をこれまで考えもしなかった。だが本書に登場する進化論的ポエムとそれを言い放つ「ドヤ顔」については具体的な映像についての心当たりもある。そんな訳で、本書をとても興味深く読む事ができた。上記のような「ドヤ顔」への違和感を共有できる方であれば、本書を楽しくかつ、その違和感の正体をより深く知る一助としても読めるだろう。

というのは本書のほんの入り口で、考察はさらに専門家同士の論争を経て、進化論という学問のあり方というような所にまで及ぶのだが、僕の可哀想な理解力では(そしてまだ駆け足で一度読んだきりという状態では)、これ以上何かを書くととんでもない間違いを犯しそうなので、ぜひ実際に本書を手に取ってご自分の目で確かめていただきたい。僕自身としては良い刺激を受ける書籍であったと思っている。

ところで「進化論」というテーマには全く関係ないのだが、本書の中では他ならぬ吉川君の文章が、これまで読んだ著作に比べてより彼らしいものであったという感想を持った。ある部分とても真摯であり、そしてときおりの軽快なジョークを挟んだ文体は、まるで居酒屋のテーブルで聞いた彼の語り口そのものだ。

そんな訳で本書を読み進めながら、僕は頭の中のどこかで常に彼の表情を意識し続けていたのだが、どう考えても、その表情がドヤ顔をしていると考えざるを得ない箇所があるように思えた。次回、お会いした時にでもその真偽について確認してみたいと思う所存である。

2014/02/16

実森さんのこと

友人を惜別するエントリを続けざまに目にした。この数年、自分より若い人が亡くなる局面に出会う事がぽつぽつとあって、そんな話を聞く度にいたたまれない気持ちになる。そして、これが老いるって事なんだなと感じる。

それとは別に、そういう話を聞くといつも思い出すのが実森さんの事だ。もう亡くなって何年になるんだろう。

実森さんと最初に出会った当時、僕は今はなきVBマガジン編集部で鉄砲玉をしていて、クライアントさんを怒らせて編集長を謝罪に出向かせたり、徹夜で行われるユーザー会のオフ会(前世紀の響きだ)に出席したりして、まあ今とあまり変わらない毎日を送っていた。実森さんと出会ったのもそんなオフ会のひとつで、浅草の神谷バーを会場に、コミュニティのある有名人が、別のこれまた良く知られた有名人のライブマスクを取るというイベントが発生した時のことだ。あの顔型はどうなったんだろう。

たまたま二次会の席が隣になって、自分以外でメディアの人間がこの席にいることに驚いた。やけに話が面白くて、延々と二人で話しをしていた事を良く覚えている。7月のことでやけに暑かったのも覚えている。結局、深夜になって解散し、自宅に帰れない僕はそのまま会社に戻ってレビュー記事を書いたりしていたんじゃなかったかと思う。それから色々な発表会やらイベントやらの席で、実森さんの存在を意識することになった。

やがて僕はVBマガジン編集部から飛び出して、別の単発企画やら季刊誌なんかを作るようになったのだけど、そんな最中に実森さんが同じIT関連の別の会社に移籍したという話が聞こえてきた。それから、以前にも増して実森さんの存在を意識するようになった。カンファレンスの会場で講演者に名刺交換に行こうとすると、いつも一歩前にいるのが実森さんで、商売敵としてはハッキリいって鬱陶しい存在だった。あ、これ負け惜しみですから本気で取らないでくださいね。

当時、IT関連の編集者(の有志)が集う飲み会が定期的に開かれていて、その席で顔を合わせる事もあったけど、いつも忙しそうにしていて終了間際のギリギリに登場したり、結局こられなかったりと、だんだん顔を合わせる機会が減って行き、僕も雑誌の仕事を離れて書籍を担当するようになって、以前ほどはカンファレンスやらイベントに出向ことも減っていた。そんなある日、突然実森さんが亡くなったらしいという話が飛び込んできた。

最初にあった時に実森さんが努めていた会社に過去在籍していた同僚が教えてくれたのだけど、最初は一体何を言われているのか良く分からなかったのを覚えている。まだ30になるかならないかだったし、(学生時代を除けば)同年代の誰かが亡くなるなんてことは想像の埒外で、ピンとこなかったからだ。

それで実際どうなのか知りたくて、実森さんの当時の会社にいらした先輩に、聞いてみたところ「残念ながらそれは事実です」という簡潔な返信をいただいた。それ以上の情報は残念ながら分からなかった。おそらく色々な事情があったのだろう。ふと認めたくない彼の死を確認するため一生懸命になっている自分に気がついて、それ以上何かをする気が失せてしまった。

そんな訳で、実森さんはある日突然僕らの前から姿を消してしまった。今でもあの飄々とした笑顔でフッと現れるんじゃないかと思い続けてもう何年にもなるけど、残念ながらそんな事はなかった。

最近では思い出す事もだんだん減って来ていて、『ノルウェイの森』冒頭の言葉を身にしみて実感している。時々、自分がとても酷い事をしているような気持ちになって辛くなる。

最初は五秒あれば思い出せたのに、それが十秒になり、三十秒になり一分になる。まるで夕方の影のようにそれはどんどん長くなる。そしておそらくやがては夕闇の中に吸いこまれてしまうことになるのだろう

彼がいまも元気でいたら何をしていたんだろうなと時々考える。きっと変わらず僕の一歩前にいて、いつもの通り鬱陶しい存在だったんだろうなと思う。そうして、彼がなし得ただろうことを想像して、そこに一歩でも届くように自分を奮い立たせることが僕にできる唯一の事なんだと思っている。

2014/02/12

川に沿って逃げろ

ゴスペルの暗号』という書籍を読んだ。南北戦争前後、まだアメリカに奴隷制がひかれていた時代、逃亡奴隷を匿い、比較的自由であった北部自由州やカナダへの脱出を助けるための組織「地下鉄道」について書かれた書籍だ。


地下鉄道についてはWikipediaに簡単なまとめがある。英語版の方が記述は詳しいけれど以下のリンク先でもおおまかなアウトラインは分かると思う。


難しいのは存在そのものが秘匿された組織だったため、物的証拠がほとんど残ってないらしいことだ。とはいえ、関係者の証言は幾つも残っていて、特に有名なのが「地下鉄道」で逃亡奴隷の水先案内人を務める「車掌」のもっとも有名な一人、ハリエット・タブマンだ。


上記の書籍では、タブマンの非凡な能力についても紹介されていた。それは瀕死の重傷を負った事をきっかけに獲得されたという、近い将来に存在する危険を事前に察知できるとしか思えないような勘の良さだ。Wikipediaにある「この任務においても、タブマンは一度も捕えられることはなかった」というちょっと引っかかりのある文章は、おそらくこのことを指しているのだろうと思う。

この書籍はタブマンの話だけでなく、タイトルにもあるようにゴスペル(黒人霊歌)に隠された地下鉄道の暗号がテーマになっていて、かなり楽しめる内容だったので、ご興味のある方は手に取ってみて欲しい。

ところで、僕が本書でハリエット・タブマンの話を知った時、何かが胸の中で引っかかった。何か聞いたことがあるぞ。ぼんやりとした記憶の中から思い出した瞬間、膝を打つ思いがした。

ザ・バンドの楽曲の中でも1、2を争って有名な曲に「ザ・ウェイト」がある。この曲の歌詞は「難解な歌詞」をいう形容がされることが多く、実際繰り返し聞いても意味がよく分からなかったのだけれど、なんとこの中にタブマンのニックネームと同じ「ミス・モーゼ」という名前が登場する。
Go down, Miss Moses, there's nothin' you can say
It's just ol' Luke and Luke's waitin' on the Judgment Day
"Well, Luke, my friend, what about young Anna Lee?"
He said, "Do me a favor, son, won't you stay and keep Anna Lee company?"
一度、点が繋がりだすと、他のパートについても歌詞が暗示しているものがうっすらと見えてくる。宿を求めて彷徨う男、隠れ家を探すうちに悪魔と連れ立つカルメンとの出会い(有名なブルースマン、ロバート・ジョンソンが十字路で悪魔に魂を売って、ギターの才能を手に入れたという伝説はあまりにも有名だ)、犬を連れて霧の中を迫るチェスター...

この曲の特徴的なコーラスの「Fanny」も、歌詞の最後の節にある「 I do believe it's time to get back to Miss Fanny」と重ね合わせると、とても興味深い。
Take a load off, Fanny
Take a load for free
Take a load off, Fanny
And you put the load right on me
 「Fanny」と呼びかけるコミカルな言葉も、見かけ以上に重い意味をはらんでいるように見えてくる。

この「いわれなき抑圧から、水際を通って、犬を連れた追跡の目を盗んで逃げる」というイメージは、例えばコーエン兄弟の映画「オー!ブラザー」(犬を連れた保安官)や、古くは「逃亡者」(地下水道を逃げる主人公)に登場する。そういえばマーク・トウェインの『ハックルベリー・フィンの冒険』も、逃亡奴隷と川が登場する話だ。

映画、音楽、小説などに繰り返し登場するイメージは、いわば米国の記憶とでも言えるものなのかもしれない。

2013/05/11

『ICRP111 から考えたこと』電子化のお手伝いをしました

有志によってまとめられたブックレット『ICRP111 から考えたこと』の電子化、正確にはePUBとmobiフォーマット制作のお手伝いをしました。こちらからダウンロードできます(下記はDropboxへのリンクです)。


ICRP 111

ICRP 111というのは、国際放射線防護委員会(ICRP)による勧告111という意味で、チェルノブイリへの対応を主導したジャック・ロシャール氏を主筆としてまとめられた文書とのこと。

2011年に起きた福島第一原子力発電所の事故によってまき散らされた放射線源とその影響について、どのようにリスクを算定し、どのように判断すべきなのかを考えるためのアドバイスをまとめたもの、だと理解しています。とはいえ、僕は元のICRP 111を読んでないので本当にそうなのかは分かりません。

今回のブックレットは、このICRP 111を読み解くために行われたインターネット上での「模擬授業」(というなの対話)をまとめたものです。母なる偶然の導きによって、哲劇コンビの著作を担当されてらっしゃる朝日出版社の赤井さんの知己を得て、そこから赤井さんが関わられている今回のプロジェクトのお手伝いをすることになりました。

技術的なお話

さて、この文書には元となるPDF版があり、僕の担当はそれをePUB、mobi化するという作業でした。mobi化についてはePUBフォーマットをAmazonさんの変換ツールkindlegenを使って変換しているだけなので、実際にはePUBフォーマットを作成するのが主な作業です。

ePUB化のツールには、プログラミング言語Rubyで実装された文書処理ツールReVIEWを使用しています。 ReVIEWを採用した理由は、仕事でも使っていることもありツールの振る舞いやハマりどころがある程度分かっていたことが大きいです。最近はソースも読み始めていたので、何かあっても自分で何とかできるだろうという目算がありました。さらに、もしニッチもサッチも行かなくなったら、メンテナの武藤さんに泣きつこうという打算もあったことを告白いたします ;-P

一方で、ReVIEWが開発されたバックグラウンドであるIT関連書籍の外で、どの程度通用するのかを試してみたいという気持ちもありました。

ReVIEW

さて、ReVIEWはテキストファイルへの簡単なマークアップを元にしてさまざまなフォーマットへの出力を行ってくれるツールです。基本的にはReVIEWのドキュメントにある通りマークアップをして設定ファイルを書き、review-epubmakerコマンドに掛けるだけです。

$ review-epubmaker config.yaml

ただ、先ほども書いたように、ReVIEWはもともとIT関連書籍の執筆をバックグラウンドにしています。そのため今回のような対話形式の書籍を表現するためのタグセットはもちろんありません。

もちろん、単に見栄えだけを整えるだけなら、おそらく話者名の部分を太字にするだけでもなんとかなります。例えば、以下のように。

Mr. Gumby Doctor! my brain hurt ...
ただ、これはあまりにも残念です。というのも本文中に太字にすべき箇所があって、話者名とは違うスタイルにしたいと思った場合、この方法は破綻します。

Mr. Gumby Doctor! my brain hurt, too ...
幸い、ReVIEWには文法を拡張する方法があるので、今回はこれを用いました。@<speaker>{foo}というインラインタグを作成して、これをHTMLの<span class="speaker">foo</span>に展開しています。

ただし、この方法にも落とし穴はあります。ReVIEWのような文書処理ツールは、書式が標準化されていることが強みの一つで、だからこそ一つの書式をさまざまな形で出力することができます。このような方法で文法の拡張を続けると、せっかくの強みが活かせないことになります。

文法の拡張については慎重に、例えば文書のタイプに応じてスキーマセット(ひと揃いの文書構造)を用意するような事が必要だと思います。また今回はそこまで対応しませんでしたが、PDF版を見ていただくと分かるように、文書のパート毎にフォーマットが異なるような文章をReVIEWで表現する方法というのも、IT関連書以外に適用して行く上では必要だと思いました。

画像と表

画像と表の扱いは随分と迷いました。ePUBの利点のひとつに、視覚障碍者へ配慮した文書を作成しやすいという点があります。当初、図版はできるだけSVG化したいと思っていたのですが、元になる図版がラスタデータのみであったり、ラスタデータの上にベクタデータを重ねているようなものが複数あったため諦めました。

これは今後、電子化を見据えてデータを作って行く際に必要な事ですが、グラフィカルな要素であってもSVGのように機械可読性のあるデータ形式を選択することは、アクセシビリティや検索最適化のためにも重要だと思います。

imageタグに代替テキストを指定しようと思っていたのですが、ReVIEW標準の機能では対応してません。こちらも何とか対応しようと思ったのですが、僕の能力不足で実現できませんでした。今後の課題です。

表に関しては、「8日目」に登場するものはHTMLの表にしました。もう一つ、表が登場する箇所があるのですが、ここは本文中に「表の画像を取得してきた」という記述があるので画像のままとしています。

所感

今回の作業を通じて思ったのは、ITとは何の関係もないジャンルの出版社が電子書籍を制作するには、まだまだ難しい点が多いなあということです。

また、これは以前からの持論なのですが、どうも日本の出版物というのは欧米のそれとは異なり、版面を1枚の絵として認識しているのではないかと思っています。一度輸入された活版が廃れて、木版によるページ刷りで書物が作られたのはその現れではないかと。そういう文化と、テキストを整然と構造化して作る西欧的な書物フォーマットを摺り合わせて行く作業が今後必要なんだろうなとも思いました。

何はともあれファイルは公開へとこぎ着けました。ご執筆された皆さんの、また事故現場の近くで不安の中暮らす方々のお役に、わずかでも立てたなら嬉しい限りです。冒頭にも「ガイドライン」と書きましたが、個人的には、ICRP 111もこのブックレットも直接的な解答を得るための物ではないと思います。自分で考えるための、考慮すべき要素を列挙した基準点と考えるべきなんだろうと思います。たぶん。

一応、iBooksとKindle Paperwhiteで表示のチェックを行っていますが、おかしなところなどありましたらお知らせください。

2013/03/30

『パーフェクトPython』の読み進め方、更に一歩進むための書物たち

3/16に行われた PyFes の会場で、技術評論社から発行された『パーフェクトPython』のプレゼント大会が行われ、見事1冊ゲットした。450ページ強の書籍を隅々まで読むには時間が足りないため、ざっと一読した印象と、本書を読んだ方への補助線のようなものを引いてみたいと思う。

導入〜言語仕様

導入である1章、続いて言語仕様の解説が9章まで続く。カバーに「Python 3.3対応」と謳われており、実際のところ本書はPython3.3の入門書だ。基本的な文法は同じなのであまり気になることではないが、Python 2系に関する解説は基本的にない。クラスに関する機能を2系でも使いたい、あるいは特定のサードパーティモジュールを使いたいという方が本書を手に取られるときはご注意いただけると良いのではないかと思う。サードパーティモジュールのPython 3への対応状況は以下にまとめられている。
PYTHON 3 WALL OF SUPERPOWERS
逆に、Python 2系をずっと使ってきて、3.3がリリースされたのでそろそろ真剣に以降しようかと考えている読者にとって、本書は良い選択だと思う。

実践

10から14章は「実践的な開発」と題されている。ただ、中を読んでみるとコマンドラインツール、GUI、テスト、Webアプリケーションなので、これは「Pythonを使ったアプリケーション実装のバリエーション」を紹介するパートだと理解すればよいだろう。
それぞれのテーマがそれだけで1冊の書籍になるような内容なので、読む際にも全体像を把握する事に主眼を置いて、詳細は紹介されているURLや参考文献などを見ると良いだろう。
Webアプリケーションに関する書籍は沢山あるので、それ以外の分野に関して、僕が読んだ事のある書籍を挙げておく。ただ、残念な事にすべて英語の書籍であること、またPython 2系を想定して書かれているものが多い。タイトルの後ろに出版年を記しているので、合わせて参考にしていただきたい。
テキスト処理:
"Text Processing in Python" (2006)
GUI:
"Rapid GUI Programming with Python and Qt: The Definitive Guide to PyQt Programming" (2007)
テスト:
"Python Testing: Beginner's Guide"(2010)

適用範囲、環境構築

15から19章は「適用範囲」と題されていて、こちらはPythonの幅広いサードパーティモジュールを分野ごとに紹介しているパートだ。こちらも限られた紙幅なので、本書を読む際には「こんな事ができますよ」というきっかけ作りにお役立ていただけると良いだろう。
また、付録として環境構築の方法が紹介されているのだが、Mac OSとLinuxではそれぞれCコンパイラの環境をインストールすることが記載されているのに対して、Windowsにおいてはその記載がない。Visual Studio 2010がインストールされていない環境では、本書で紹介されたインストール例が実行できない場合があるのでご注意いただきたい。
Recent Windows Changes in Python 3.3

話はガラリと変わって...

編集の現場から遠ざかって何年か経つので、こういう事をお気楽に言えるのだけれど、最近のプログラミング言語はできる事の範囲が広く、1冊の書籍でその全てを紹介するのはとても難しい。「Battery Included」を標榜するPythonのような言語の場合、言語仕様そのものはコンパクトでも、標準モジュールをくまなく網羅する事さえまず不可能だろう(標準ドキュメントを印刷するとどうなるか想像してみて欲しい)。
だからこそ、本書のように書籍としては言語のコア部分についてはある程度を押さえて、あとはカタログ的にさまざまな機能を紹介するタイプの書籍が現実解となる。読み手としても歯がゆいだろうけれど、作り手側だって歯がゆい気持ちなのだ。それは我々が相手にしている、情報技術が解決すべき問題領域がそれだけ広くなっているということの証左でもある。新たな敵は常に雲の彼方から飛来し続けるのだ。